2. 中国絵画の理想像・激動の時代の後に

激動の時代を経てた二国と文化圏

220年、後漢の衰退によって魏・呉・蜀のいわゆる三国志の時代となり、動乱の結果、魏を継いだ晋(しん - 西晋)が統一を果たしました。後に北方異民族の南下に押され、西晋は江南(こうなん - 中国南部・長江流域)に逃れ、316年に亡命政権の東晋を建国しました。

以降、中国は南北(黄河流域の北部と漢民族王朝の江南)に分かれましたが、文化もそれぞれの特徴が花開くことになりました。(589年には隋(ずい)により再統一されます。)

中国が二つに分かれた後も、江南では短命な6王朝が興亡が繰り返されました(六朝時代)。
六朝時代の絵画遺品として、墳墓の壁画や画像磚(レンガにレリーフが入った物)、副葬された調度品の漆画(しつが - うるしで描いた絵)屏風が残っています。


芸術としての絵画のはじまり

顧愷之(こがいし - 人名)

東晋では、この時代に活躍した画家に「顧愷之」が挙げられます。人物画に優れ、人々の容貌、性格まで描けると言われています。顧愷之はまた、文人画(ぶんじんが - 職業画家でない文人 (知識人) が描いた絵画)や山水画(さんすいが - 渓谷、山や川など自然の風景を描く画風)の祖とも言われています。

中国では、顧愷之が活躍した時代には作品の名前が文献上にも残されるようになり、この時代に「画家」や「画論」が登場したとされています。

顧愷之の作品とされているものに、絹本の画巻(けんぽんのがかん)「女史箴図鑑(じょししんずかん)」がありますが、こちらは後世の模本です。女史箴図鑑は「西晋の張華が宮中の女官に心得を説くためにまとめた「女子箴」」を元にし、一節ごとに絵で表したものです。(大英博物館が初唐の模本を所蔵)




宗炳(そうへい - 人名)

顧愷之より後の時代に活躍した宗炳は、山々の風景を部屋の壁に描いていたとされ、床にふしながら旅行記を読んだり、地図や風景画を眺めたりして自然の中で遊ぶことが、「臥遊(がゆう)」と称されました。このころから山水画が描かれるようになったとされています。


絵画の気品

絵画が芸術性を持ち始めると、徐々に作品が評価され始めます。絵画を評論した書物が出始め、5世紀の画家「謝赫(しゃかく) - 人名」は「古画品録」で「理想的な制作態度」をまとめました。

謝赫は、6つの要点から成る「画の六法(がのりくほう)」の中で、絵画は写実だけではなく、生命感が宿っていなくてはならないと主張し、これがその後の中国絵画にも深く影響して、伝統的な絵画の理想像とされました。


●画の六法

1.気韻生動(きいんせいどう):生命感が宿るようにいきいきと描かれているか
2.骨法用筆(こっぽうようひつ):力のこもった描線で描かれているか
3.応物象形(おうぶつしょうけい):描く対象に似ているか
4.随類賦彩(ずいるいふさい):色が適切に塗られているか
5.経営位置(けいえいいち):前後の位置や画面構成がうまく配置されているか
6.伝模移写(でんもいしゃ):古画を模写して勉強しているか

東洋の絵画

東洋の絵画について紹介しています。 中国の歴史と共に発展してきた絵画は日本や韓国にも影響を与えました。