4. 唐の国際文化

隋の文帝は南北朝を統一し、長安(現在の西安付近)を都として皇帝権力の強化と中央集権制度を推し進めました。南北の絵画の作風も融合され、この時代には「董伯仁(とうはくじん - 画家)」や「展子虔(てんしけん - 画家)」らが活躍しましたが、煬帝(ようだい)の時代で反乱が起こり、3代38年で隋は滅びました。

唐は隋の諸制度を受け継ぎ、官僚制度や法整備を進め、異民族をも制圧し、シルクロードを支配下におさめたことで、西方との交流も盛んになりました。
唐はササン朝ペルシアやグプタ朝インドなど西方の文化や品物を輸入し、国際文化を開花させました。


長安の宮廷画家

初頭から盛唐にかけて、有名な画家が多数登場しています。人物画では「閻立徳(えんりっとく - 画家)」「閻立本(えんりっぽん - 画家)」の兄弟。仏画では「尉遅乙僧(うっちおつそう) - 画家」がぼかしにより立体的な表現を行いました。
玄宗(712~756年在位)の時代には中国史上最高の画家と評される「呉道玄(ごどうげん)」が、書の筆法を応用して描線のうまさをいかした白描画を描きました。また、「李思訓(りしくん)」と「李昭道(りしょうどう)」の父子の、細かく丁寧な彩色を施した「金碧青緑山水画(きんぺきせいりょくさんすいが)」が有名です。

詩人として知られる「王維(おうい)」は山水画も有名で、韓幹(かんかん)は馬を描いて有名になりました。
さらに水墨画では、手や頭髪に墨を付けて絵を描く曲芸の「潑墨(はつぼく)」を行う画家も現れ、この時代の都「長安」には絵画に優れた人物が多く現れ、すぐれた業績が多数残されていることがうかがえます。


密教絵画の伝来

初頭から盛唐の時代はインドから伝えられた仏教の一派「密教」が伝わりました。善無畏(ぜんむい - 人名・インド摩伽陀国(まがだこく)国王)は陸より、金剛智(こんごうち - 人名・中国密教の祖師)・不空(ふくう - インド人僧)は海から中国に渡って密教を伝えました。

これにより密教関連の図像も伝わり、日本から訪れた最澄(さいちょう - 平安時代の僧)と空海(くうかい - 平安時代初期の僧)も持ち帰っています。

天台宗の「円珍(えんちん - 僧)」が請(こ)い受けた「五部心観(ごぶしんかん - 園城寺蔵の紙本墨画)」はインド風ではありますが、中国の制作です。一定の太さの線、鉄線描(てっせんびょう)で強く引かれる輪郭の技法は「屈鉄盤糸(くってつばんし - 鉄を屈し糸をわだかまらせる)」と評された尉遅乙僧(うっち いっそう - 人名・西域の画法を唐にもたらした画家)の描線を感じさせます。



(伝閻立本 帝王図巻 隋・文帝 唐7世紀後半)

東洋の絵画

東洋の絵画について紹介しています。 中国の歴史と共に発展してきた絵画は日本や韓国にも影響を与えました。