5. 唐・則天武后時代の陵墓壁画

中国唯一の女帝・則天武后(そくてんぶこう)時代の絵画文化

則天武后は唐の第三代皇帝「高宗(こうそう)」の皇后でしたが、病弱な高宗の代わりに政治の実権を握り、高宗崩御後には実施の「中宗」「睿宗」を地位から退かせて自ら肯定となりました。

則天武后は中国で唯一の女帝(在位690~705年)であり、国号を「周」と改め、唐の王族を次々に殺害し、「武」一族や側近を重用して専制政治を行いました。

この時期の文化は初唐の最盛期と言えます。

高宗と則天武后は西安郊外に合葬されていますが、その「乾陵(けんりょう)」の近くには、「章懐(しょうかい)太子墓」「懿徳(いとく)太子墓」「永泰公主(えいたいこうしゅ)墓」などの陪葬墓(ばいそうぼ - 近くに埋葬された近親者や従者の墓)が発掘されました。現在、それらの壁画は唐代絵画の代表的な作品としても知られています。


章懐太子墓の壁画

高宗と則天武后の子「章懐太子李賢(りけん)」は皇太子となりましたが、後に母(則天武后)にうとまれて四川に流され、自殺させられてしまいました。章懐太子の墓は則天武后の死後に造られ、墓室や墓道の壁面には「狩猟図」「朝貢(ちょうこう)図」「女侍(じょじ)図」「儀仗(ぎじょう)図」「馬毬(ばきゅう)図 」など、当時の王族の生活や儀式の様子が描かれていました。

馬毬(ばきゅう)はポロ競技のことですが、ペルシアのゲームが長安でも行われていたということからも、唐時代が国際文化を取り入れていたことが伺えます。馬の絵が得意な「韓幹(かんかん - 画家)」の絵画を連想させます。

章懐太子墓に描かれていた「女侍図」には、樹木の下に婦人の姿が見られます。「樹下美人図」と呼ばれるこのような作品は唐代に流行していましたが、「新疆ウィグル自治区 吐鲁番(トルファン)県アスターナ」の墳墓から出土した屏風や正倉院宝物の「鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)」など、東アジア全域で流行していました。これらに描かれている女性はどれもふっくらと肉づきの豊かな頰をしており、初唐から盛唐に美人とされていた女性観のイメージを想起させます。


則天武后により死に追いやられた子、孫の陵墓壁画

■章懐太子墓【李賢(りけん)】(則天武后の子・中宗の兄)
 狩猟図、朝貢図、馬毬図、儀仗図

■懿徳太子墓【李重潤(りじゅうじゅん)】(則天武后の孫・中宗の長子)
女侍図、儀仗図、宮城楼閣図

■永泰公主墓【李仙蕙(りせんけい)】(則天武后の孫・中宗の娘)
女侍図、儀仗図


女侍図「章懐太子墓 前室西壁南側」
陝西省乾県乾陵陪葬墓(せんせいしょう けんけん けんりょうばいそうぼ)出土
唐(神龍2(706年))


「鳥毛立女屏風」(とりげりつじょのびょうぶ)
正倉院に伝わる屏風
六扇からなり、各扇に唐装の婦人を一人配した樹下美人図。
天平勝宝8年(756)の東大寺献物帳に記載される。

東洋の絵画

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