地方での絵画文化の開花
唐が滅亡し、中国は再び分裂します。
中国中央部では5つの王朝「後梁(こうりょう)」「後唐(こうとう)」「後晋(こうしん)」「後漢(こうかん)」「後周(こうしゅう)」が交替したため五代と言われ、地方では軍閥の小国が乱立したため十国(じっこく)と呼ばれています。
これらは文化にも影響し、海外文化にとっても大きな転換期となりました。
唐末以降、長安や洛陽の戦乱をさけた文化人は地方に移り、中央の文化が地方に移っていきました。特に「後蜀(こうしょく) - 王朝名:四川934~965年」と「南唐(なんとう) - 王朝名:江南937年 - 975年」には宮廷文化が保存され、優れた画家もうまれました。
蜀(しょく)では「黄筌(こうせん) - 人名」が、蜀に来た長安出身の画家たちから学び、唐の宮廷の画風を受け継いで、「黄氏体(こうしたい)」と呼ばれる花鳥画を完成させました。
最初は十国前蜀の第2代(最後)の皇帝「王衍(おうえん)」に仕え、後に後蜀の「翰林院待詔(かんりんいんたいしょう)」に任ぜられ、宋時代には都の「汴京(べんけい) - 都市名:現 開封(かいほう)」に呼ばれました。
黄筌の画風は子の黄居宝(こうきょほう)、黄居寀(こうきょさい)らに受け継がれて、北宋画院の院体花鳥画の手本となりました。黄氏体は観察に基づいて繊細な描写と華麗な色彩とを特徴とし、現在でも黄筌は花鳥画の名手として有名です。
華北の山水画
華北では、五代末から北宋の初期のころ、「荊浩(けいこう)」「関同(かんどう)」「李成(りせい)」「范寛(はんかん)」などの山水画家が活躍し、ごつごつとした岩山の高さを強調した構図が特徴で、見る者を圧倒する迫力があります。
江南の山水画
南唐(江南)では、「徐熙(じょき)」が花鳥画の分野で、「董源(とうげん)」「巨然(きょねん)」らが山水画の分野で活躍しました。
徐熙の花鳥画は「徐氏体(じょしたい)」と呼ばれ、作風は黄筌のように観察に基づいたものより、印象主義的な風合いのものでした。
董源は十国南唐の第2代皇帝「李璟(りけい)」につかえた宮廷画家です。山水画を得意とし、唐代の王維風の水墨画や李思訓風の青緑山水画の技術にも長け、江南系山水画の祖と言われています。江南の湿潤な風景も写実的に書き出し、董源とその後継者である巨然のふたりにより、江南独特の山水画「南宗画」が形となり、明代中期以降は絵画の主流とされるようになりました。
絵画の地域性
■華北 山水画 「荊浩」「関同」
高くそびえる険しい山が描かれる
■江南 山水画 「董源」
水郷地帯のパノラマ風景が特徴
花鳥画 「徐熙」
やや粗野な筆致で印象主義的な絵画
■四川 花鳥画 「黄筌」
細密な写生描写と華麗な彩色が鮮やか
匡廬図(原本は唐末五代 ) 荊浩
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