6. 中国・地方文化の開花

地方での絵画文化の開花

唐が滅亡し、中国は再び分裂します。
中国中央部では5つの王朝「後梁(こうりょう)」「後唐(こうとう)」「後晋(こうしん)」「後漢(こうかん)」「後周(こうしゅう)」が交替したため五代と言われ、地方では軍閥の小国が乱立したため十国(じっこく)と呼ばれています。

これらは文化にも影響し、海外文化にとっても大きな転換期となりました。
唐末以降、長安や洛陽の戦乱をさけた文化人は地方に移り、中央の文化が地方に移っていきました。特に「後蜀(こうしょく) - 王朝名:四川934~965年」と「南唐(なんとう) - 王朝名:江南937年 - 975年」には宮廷文化が保存され、優れた画家もうまれました。


蜀(しょく)では「黄筌(こうせん) - 人名」が、蜀に来た長安出身の画家たちから学び、唐の宮廷の画風を受け継いで、「黄氏体(こうしたい)」と呼ばれる花鳥画を完成させました。
最初は十国前蜀の第2代(最後)の皇帝「王衍(おうえん)」に仕え、後に後蜀の「翰林院待詔(かんりんいんたいしょう)」に任ぜられ、宋時代には都の「汴京(べんけい) - 都市名:現 開封(かいほう)」に呼ばれました。

黄筌の画風は子の黄居宝(こうきょほう)、黄居寀(こうきょさい)らに受け継がれて、北宋画院の院体花鳥画の手本となりました。黄氏体は観察に基づいて繊細な描写と華麗な色彩とを特徴とし、現在でも黄筌は花鳥画の名手として有名です。


華北の山水画

華北では、五代末から北宋の初期のころ、「荊浩(けいこう)」「関同(かんどう)」「李成(りせい)」「范寛(はんかん)」などの山水画家が活躍し、ごつごつとした岩山の高さを強調した構図が特徴で、見る者を圧倒する迫力があります。


江南の山水画

南唐(江南)では、「徐熙(じょき)」が花鳥画の分野で、「董源(とうげん)」「巨然(きょねん)」らが山水画の分野で活躍しました。

徐熙の花鳥画は「徐氏体(じょしたい)」と呼ばれ、作風は黄筌のように観察に基づいたものより、印象主義的な風合いのものでした。

董源は十国南唐の第2代皇帝「李璟(りけい)」につかえた宮廷画家です。山水画を得意とし、唐代の王維風の水墨画や李思訓風の青緑山水画の技術にも長け、江南系山水画の祖と言われています。江南の湿潤な風景も写実的に書き出し、董源とその後継者である巨然のふたりにより、江南独特の山水画「南宗画」が形となり、明代中期以降は絵画の主流とされるようになりました。


絵画の地域性

■華北 山水画 「荊浩」「関同」
 高くそびえる険しい山が描かれる

■江南 山水画 「董源」
 水郷地帯のパノラマ風景が特徴
   花鳥画 「徐熙」
 やや粗野な筆致で印象主義的な絵画

■四川 花鳥画 「黄筌」
 細密な写生描写と華麗な彩色が鮮やか

匡廬図(原本は唐末五代 ) 荊浩

東洋の絵画

東洋の絵画について紹介しています。 中国の歴史と共に発展してきた絵画は日本や韓国にも影響を与えました。