靖康の変(せいこうのへん)により一度滅んだ宗ではありましたが、徽宗(きそう)の子が高宗(こうそう)として即位し、「臨安(りんあん)」(現在の杭州)を仮の都として宋を再興しました《南宋》。南宋時代の絵画は北宋絵画をそのまま受け継ぎ、画院を中心として発展しました。
馬夏様式と禅宗系絵図
馬遠と夏珪
南宋画院で有名な画家は「馬遠(ばえん)」と「夏珪(かけい)」です。
馬遠の山水画は「馬一角」と評される独特の構図。風景の一部だけを取り出して画面の片隅に描き、他は余白にして、見る者の想像力に働きかける技法です。技巧としても優れ、張りのある描線や斧で断ち割ったような岩肌(斧劈皴-ふへきしゅん)など、力強さに溢れています。この特徴は馬遠の後継者にも受け継がれ、「馬夏(ばか)様式」と呼ばれました。南宋院体画の主流となり、夏珪も大きく影響を受けました。
梁楷
画院の画家、梁楷(りょうかい)は人物画を得意とし、精密な院体の山水画もよく描きましたが、「減筆体(げんぴつたい)」と呼ばれる飄逸(ひょういつ - 考え方や行動が世事や形式にとらわれずのびのびとしている様)なおもむきで人物画を描いています。
梁楷自身の逸話も多くあり、風変わりな性格だったと伝えられています。
日本に影響を与えた禅僧の水墨画
宮廷画院とは別に、禅僧の僧侶や士大夫(したいふ - 北宋以降の科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた者)にも絵画を描く者がいました。墨一色で表現する水墨画の技法は、彼らによって完成させられたとも言えます。禅僧たちは修行のあいまに精神修養や娯楽として絵画を描きましたが、日本の室町水墨画も彼らの作品の影響を受けています。
僧・牧谿(もっけい)の水墨山水画は大胆な筆遣いと墨の濃淡による遠近感の描写が特徴です。当時の中国では人気はありませんでしたが、日本では鎌倉末から室町時代にかけて輸入され、第一級の宝物として大切にされました。大徳寺蔵の「観音猿鶴図(かんのんえんかくず)」は国宝となっています。
僧・玉澗(ぎょくかん)の水墨山水画は抽象画に近い表現で、微妙な墨の諧調は大気の状態や明暗をも表現されています。「瀟湘八景図鑑(しょうしょうはっけいずかん)」は玉澗の作品と伝えられています。
観音猿鶴図
風雨山水図 【伝 馬遠】
山水画の構図
●北宋の山水画
「主山堂堂」
中央垂直線の構図が基本で、高く険しくそびえる山々や雄大な空間を描いています。
●南宋の山水画
「一角」「一辺」
片側や隅に重心を置き、余白が多く、見る者に無限の空間や余情を与えます。
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