10. 明代の浙派と呉派

明の画院の浙派(せっぱ)

朱元璋(しゅげんしょう - 太祖洪武帝(たいそこうぶてい))は、モンゴルを北方に追いやり、ふたたび漢民族国家の明を建国しました。洪武帝は画院制度を復興し、明時代前期の絵画は宮廷を中心に発展しました。宗元(そうげん)の画風を受け継ぎつつ明時代の独自性を展開しました。

画院画家の山水画は南宋の馬遠(ばえん)や夏珪(かけい)などの画風を模範としており、その特徴は、粗暴でよどみのない堂々とした筆致で墨の黒と余白の白を強く対比させた画面構成にあります。浙江(せっこう)出身の戴進(たいしん)が中心となったため、浙派(せっぱ)と呼ばれています。
しかし、後には形式主義、技巧主義に陥ったことで徐々に衰退していきました。


明代の花鳥画家

明代の花鳥画では辺文進(へんぶんしん)や呂紀(りょき)らが南宋院体画風の写生描画を基本とし、より豊かな色彩を用いて装飾性の強い華やかな花鳥画を描きました。
明代中期には、商工業の発展に伴い、民衆の文化水準が向上したことで、民間の画家の活動も目立ちました。唐寅(とういん)や仇英(きゅうえい)らは南宋院体画の流れを汲み、「院派(いんぱ)」と呼ばれています。宮廷趣味に毒されることなく宋元の正統な筆法を守りました。


文人画の呉派

明時代中期以降、蘇州(呉)を中心とする江南地方では、元の四大家を引き継いだ文人画の一派が活躍し、彼らは呉派(ごは)と呼ばれています。その中心人物であった文徴明(ぶんちょうめい)は詩、書、画の3つの分野に長けており、画は沈周(しんしゅう)の影響を受けつつ、士大夫の教養と自由な精神とに裏打ちされた、柔らかく温かみのある江南の風景を描いた呉派の水墨山水画を成し遂げました。

明時代末期の高級官僚の董其昌(とうきしょう - 官僚・文人画家)は、画院画家の浙派(せっぱ)とこれら文人画家の呉派(ごは)を北宗と南宗に分けて優劣を論じました。
北宗の浙派は職業画家で技巧に走り、呉派は元末の四大家の流れを汲み、精神性が高いと言っています。職業画家をさげすみ、文人画家を尊ぶ董其昌の評論は、その後の中国絵画評価の基礎と方向性をつくりました。




↓ 踏雪寻梅图 戴進

↓ 雨餘春樹 文徵明



南北二宗

■ 北宗画(ほくしゅうが)

開祖:李思訓(りしくん)ー 金碧山水画
後継者:馬遠・夏珪 → 戴進など【浙派】
画風:つつしみ深い筆致・形式的・技巧的・
   斧劈皴(ふへきしゅん -  鋭い側筆。斧で割ったように峻厳(しゅんげん)な山肌や岩面を表現)
担い手:職業画家


■ 南宗画(なんしゅうが)

開祖:王維(おうい)ー 水墨山水画
後継者:董源・巨然・元末四大家 → 沈周・文徴明など【呉派】
画風:柔軟で温かい筆致・気品の高いおもむきを尊ぶ
   披麻皴(ひましゅん - 渇筆により筆線を麻の繊維をほぐしたように波打たせて山や岩のひだを表現)
担い手:文人画家

東洋の絵画

東洋の絵画について紹介しています。 中国の歴史と共に発展してきた絵画は日本や韓国にも影響を与えました。