14. 朝鮮王朝独自の絵画

中国の影響を受けた朝鮮絵画

高麗の武将、李成桂(いそんげ)は1392年に高麗を滅ぼし、李氏朝鮮を設立し、都を漢陽(ソウル)に置きました。朝鮮王朝の絵画は中国の影響を受けながら、朝鮮民族の独自性を表現しました。この時代は士大夫の文人画家と図画署(とがしょ)の宮廷画家と市井(しせい)の職業画家が活躍しました。

朝鮮王朝は儒教を重んじて中国の制度を取り入れ、中国の画院の制度をまねて宮廷に図画署という機関をおき、絵画を制作させ、画家の養成にも力を入れました。宮廷画家は、王や官僚の肖像画、儀式の様子などの記録画を描くことが主な仕事でした。

また、儒者達の中国趣味もあって、安堅(あんぎょん - 人名)は北宋画院の郭煕(かくき)の作風にならった水墨山水画を描きました。それまでの朝鮮の画家とは違い、安堅は本格的に中国の北宗院体画を学び、以後、安堅は朝鮮山水画の祖と言われるようになりました。

文官の姜希顔(かんひあん - 人名)、画員の崔涇(ちぇきょん - 人名)、李上佐(イサンザ)は安堅を継ぐ画家と言われていますが、彼らの作品で現在保存されているものはほとんどなく、作風を確認することはできません。


民族性の確立

豊臣秀吉による朝鮮侵略(1592~1598年)は朝鮮国内の文化遺産を破壊しつくし、朝鮮絵画は一時衰えてしまいました。それを再興したのが金弘道(きむほんど)や申潤福(しんゆんぼく)などの朝鮮王朝後期の画家でした。彼らは中国の模倣から抜け出し、山水画も朝鮮の風景にもとづいた風俗画を描き、朝鮮独自の絵画を成立させました。

民間では儒教が尊ばれ、儒教の徳目を描いた文字絵や、学問に対する憧れから山積みにした書籍を描いた文房図などの民画が描かれました。朝鮮の民衆から生まれた、素朴でありながら力強い民画は独特の画風だったと伝えられています。


↓ 安堅(あんぎょん) 夢遊桃源図(むゆうとうげんず)


朝鮮王朝時代の絵画

■初期(15~16世紀)
 中国の李郭派を元として安堅派の山水画風が流行った時代
 安堅(あんぎょん)・姜希顔(かんひあん)

■中期(16~17世紀)
 明の浙派(せっぱ)の画風が流行し、動物画や花鳥画でも朝鮮的画風が形成された時代
 金禔(きむぜ)・李楨(いじゅん)

■後期(18~19世紀)
 朝鮮の民族的な画風が成立し、南宗画・真景山水・風俗画が流行った時代
 鄭敾(ちょんそん)・金弘道(きむほんど)・申潤福(しんゆんぼく)

■末期(19~20世紀)
 南宗画風が本格的に流行し、異色画風が成立した時代
 金正喜(きむちょんひ)・張承業(ちゃんすんおっぷ)

東洋の絵画

東洋の絵画について紹介しています。 中国の歴史と共に発展してきた絵画は日本や韓国にも影響を与えました。