統一新羅を併合した高麗の美術
統一新羅末期の動乱の中、王建(わんごん)は高麗王朝を創立し、半島南部の新羅を併合して、後百済をも滅ぼし、半島を統一しました。
高麗は唐にならって官僚制度を整理し、宋との交易によって文化を発展させましたが、12世紀後半以降は武官(軍人の官職)が政権を握り、1231年以降のモンゴルの侵攻により、その属国となって高麗の国力は衰えました。
高麗の美術は青磁(せいじ)や螺鈿漆器(らでんしっき)、象嵌(ぞうがん)などの工芸品に際立った発展を見せましたが、絵画は中国の宋元の模倣のまま発展せず、遺品も少数です。
仏教絵画の新ジャンル・高麗仏画
王建、そして歴代の王は仏教に帰依(きえ)し、鎮護国家(ちんごこっか - 仏教には国家を守護・安定させる力があるとする思想)の法として保護しました。そのため仏教が栄え、「高麗大蔵経(こうらいだいぞうきょう)」の出版なども行われました。また、仏教美術の優れた作品が数多く制作されました。
この時代の仏教絵画は「高麗仏画」と呼ばれ、特別な様式をつくり出しており、極めて装飾的な画面構成が特徴です。なだらかでうるわしい細い描線、あざやかな色彩、金泥の多用により、仏や菩薩の衣に細密な模様を描き込んでいます。主に阿弥陀如来(あみだにょらい)、地蔵菩薩(じぞうぼさつ)、水月観音(すいげつかんのん)、楊柳観音(ようりゅうかんのん)などが描かれました。
宋や元の仏画から影響を受けて、宮廷画家や民間民間の画工により制作されましたが、時代が後になるほど表現が乏しくなり、形式的な模写を繰り返すだけになってしまいました。高麗仏画はその後の戦乱や仏教弾圧により、伝来する作品は大変少なくなっています。
仏教経典、とくに紺紙(こんし - 紺色の紙)に金銀泥で書き写された装飾経の見返しには、仏や菩薩の姿が描かれました。これも中国の絵画を模倣したもので、高麗後期のものは、元の宮廷で信仰されていたラマ経(チベット仏教)絵画が強く影響しています。
高麗時代の水墨山水画
高麗時代にも宋元の文人画にならった水墨山水画が描かれました。京都金地院(こんちいん)の「夏冬山水図(かとうさんすいず)」(重文)の二幅や京都妙満寺(みょうまんじ)の「歳寒三友図(さいかんさんゆうず)」は高麗文人画の代表作です。
これらの作品には中国の模倣に、高麗の独自性が加わり、体に柔らかさを感じられます。
↓ 水月観音像(楊柳観音像) 徐九方筆 1323年 泉屋博古館蔵
高麗仏画の特徴
1. 阿弥陀如来、地蔵菩薩、水月観音、楊柳観音などの特定の図がらに限られている
2. 阿弥陀の胸に逆卍文、掌に千輻輪文を描いたものが多い
3. 金泥による文様が多く装飾が派手
4. 丸く大きな唐草円文が大きく描かれる
5. 朱色と深い緑色を基調とした濃密な彩色
6. 高麗後期(13世紀)以降の作品しか残っていない
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