2019.12.20 03:157. 北宋時代の水墨画北宋の興亡と士大夫の台頭「趙匡胤(ちょうきょういん)」は五代十国の混乱をおさめ、中国を統一し、国号を「宗」と定めました。都を「汴京(べんけい)」に置き、名前を「開封(かいほう)」と改め、皇帝権力の強化に努めました。さらに「科挙(かきょ) - 官吏(かんり)登用試験」によって地方の知識人を集めて官僚組織を整理しました。官僚たちは「士大夫(したいふ)」「読書人」と呼ばれ、唐末以来の戦乱で陥落した門閥貴族階級に代わり、以降、中国文化を支えることになります。この時代の中国は、江南の開発による経済的な発展を見せましたが、宋は学問や芸事に浸り、文弱に流れていきました。国力が弱っている中、北方異民族の契丹(きったん)[遼]や党項(タングート)[西夏]におびやかされつ...
2019.12.20 01:346. 中国・地方文化の開花地方での絵画文化の開花唐が滅亡し、中国は再び分裂します。中国中央部では5つの王朝「後梁(こうりょう)」「後唐(こうとう)」「後晋(こうしん)」「後漢(こうかん)」「後周(こうしゅう)」が交替したため五代と言われ、地方では軍閥の小国が乱立したため十国(じっこく)と呼ばれています。これらは文化にも影響し、海外文化にとっても大きな転換期となりました。唐末以降、長安や洛陽の戦乱をさけた文化人は地方に移り、中央の文化が地方に移っていきました。特に「後蜀(こうしょく) - 王朝名:四川934~965年」と「南唐(なんとう) - 王朝名:江南937年 - 975年」には宮廷文化が保存され、優れた画家もうまれました。蜀(しょく)では「黄筌(こうせん) - 人名」が、蜀...
2019.12.20 00:355. 唐・則天武后時代の陵墓壁画中国唯一の女帝・則天武后(そくてんぶこう)時代の絵画文化則天武后は唐の第三代皇帝「高宗(こうそう)」の皇后でしたが、病弱な高宗の代わりに政治の実権を握り、高宗崩御後には実施の「中宗」「睿宗」を地位から退かせて自ら肯定となりました。則天武后は中国で唯一の女帝(在位690~705年)であり、国号を「周」と改め、唐の王族を次々に殺害し、「武」一族や側近を重用して専制政治を行いました。この時期の文化は初唐の最盛期と言えます。高宗と則天武后は西安郊外に合葬されていますが、その「乾陵(けんりょう)」の近くには、「章懐(しょうかい)太子墓」「懿徳(いとく)太子墓」「永泰公主(えいたいこうしゅ)墓」などの陪葬墓(ばいそうぼ - 近くに埋葬された近親者や従者の墓)が発掘...
2019.12.13 07:134. 唐の国際文化隋の文帝は南北朝を統一し、長安(現在の西安付近)を都として皇帝権力の強化と中央集権制度を推し進めました。南北の絵画の作風も融合され、この時代には「董伯仁(とうはくじん - 画家)」や「展子虔(てんしけん - 画家)」らが活躍しましたが、煬帝(ようだい)の時代で反乱が起こり、3代38年で隋は滅びました。唐は隋の諸制度を受け継ぎ、官僚制度や法整備を進め、異民族をも制圧し、シルクロードを支配下におさめたことで、西方との交流も盛んになりました。唐はササン朝ペルシアやグプタ朝インドなど西方の文化や品物を輸入し、国際文化を開花させました。長安の宮廷画家初頭から盛唐にかけて、有名な画家が多数登場しています。人物画では「閻立徳(えんりっとく - 画家)」「閻立本(えん...
2019.12.13 04:293. 石窟寺院仏教の伝来と石窟寺院後漢の時代にインドから伝わっていた「仏教」が中国の北朝・南朝の両方にまで広がり、洛陽(らくよう)や建康(けんこう)などでも仏教寺院が多数建立され、堂内には壁画も描かれました。この時代、竺法護(じくほうご - 人名)や仏図澄(ぶっとちょう - 人名)などの外国人僧も渡来し、それとともに西域やインドの画法も伝わり、寺院の堂内は外国風の壁画で飾られていました。凹凸寺の例南朝の梁(りょう - 王朝502~557年)の武帝に仕えた画家、張僧繇(ちょうそうよう - 人名)が建康の一条寺に描いた花の絵が立体的に見えたことから、「凹凸(おうとつ)寺」と呼ばれていたとされています。これは西域画風の陰影法を応用したと言われています。シルクロードは石窟寺...
2019.12.13 00:102. 中国絵画の理想像・激動の時代の後に激動の時代を経てた二国と文化圏220年、後漢の衰退によって魏・呉・蜀のいわゆる三国志の時代となり、動乱の結果、魏を継いだ晋(しん - 西晋)が統一を果たしました。後に北方異民族の南下に押され、西晋は江南(こうなん - 中国南部・長江流域)に逃れ、316年に亡命政権の東晋を建国しました。以降、中国は南北(黄河流域の北部と漢民族王朝の江南)に分かれましたが、文化もそれぞれの特徴が花開くことになりました。(589年には隋(ずい)により再統一されます。)中国が二つに分かれた後も、江南では短命な6王朝が興亡が繰り返されました(六朝時代)。六朝時代の絵画遺品として、墳墓の壁画や画像磚(レンガにレリーフが入った物)、副葬された調度品の漆画(しつが - うるしで描いた...
2019.12.03 02:141. 最古の中国絵画中国最初の王朝といわれる「殷(いん)」その次の「周(しゅう)」の時代の絵画は発見されていませんが、2015年現在、最古の絵画といわれるものは、戦国時代の「楚(そ)」の墳墓(ふんぼ)から発見された絹に描いた絵「帛画(はくが)」とされています。紀元前4~3世紀のもので、龍や鳳凰、女性が墨の輪郭線で描かれています。馬王堆漢墓(まおうたいかんぼ)帛画1972年に湖南省長沙市の「馬王堆漢墓」で、素晴らしい遺品が発掘されました。利蒼(長沙国丞相)とその妻子が葬られた「馬王堆漢墓」は、1972年の発掘時、妻の遺体の皮膚には未だ弾力があり、生きているような状態であったことで知られています。同時に副葬品にも貴重な工芸品や帛書など、多くの貴重な美術品が発見されました。中で...
2019.12.03 01:09東洋美術の魅力東洋の建造物東洋美術の魅力を語るとすれば、まずは「仏教美術」の成熟が挙げられるでしょう。仏教は紀元前5世紀頃、インドで生まれ、その後造仏造寺が盛んとなり、一般の人々にも信仰が広がりました。・紀元前1世紀頃のアジャンターの石窟・紀元前2世紀から3世紀のガンダーラの石仏美術・4世紀以降の中国をはじめ西域各地の千仏洞(石窟寺院)などを代表としますが、中国に広がった造仏はさらに多大な人材と時間を費やし、4世紀に始まった・敦煌(とんこう)の石窟は14世紀にまで及びました。敦煌は現在でも、古代独自の巨大構築物として名を馳せています。東洋美術の特徴は、このように「大きい」ものに美を求める傾向がありました。・中国の雲岡の石窟・中国の龍門の石窟・朝鮮の統一新羅時代の王陵...