2020.01.31 08:4914. 朝鮮王朝独自の絵画中国の影響を受けた朝鮮絵画高麗の武将、李成桂(いそんげ)は1392年に高麗を滅ぼし、李氏朝鮮を設立し、都を漢陽(ソウル)に置きました。朝鮮王朝の絵画は中国の影響を受けながら、朝鮮民族の独自性を表現しました。この時代は士大夫の文人画家と図画署(とがしょ)の宮廷画家と市井(しせい)の職業画家が活躍しました。朝鮮王朝は儒教を重んじて中国の制度を取り入れ、中国の画院の制度をまねて宮廷に図画署という機関をおき、絵画を制作させ、画家の養成にも力を入れました。宮廷画家は、王や官僚の肖像画、儀式の様子などの記録画を描くことが主な仕事でした。また、儒者達の中国趣味もあって、安堅(あんぎょん - 人名)は北宋画院の郭煕(かくき)の作風にならった水墨山水画を描きました。それ...
2020.01.31 08:0713. 高麗の仏教絵画統一新羅を併合した高麗の美術統一新羅末期の動乱の中、王建(わんごん)は高麗王朝を創立し、半島南部の新羅を併合して、後百済をも滅ぼし、半島を統一しました。高麗は唐にならって官僚制度を整理し、宋との交易によって文化を発展させましたが、12世紀後半以降は武官(軍人の官職)が政権を握り、1231年以降のモンゴルの侵攻により、その属国となって高麗の国力は衰えました。高麗の美術は青磁(せいじ)や螺鈿漆器(らでんしっき)、象嵌(ぞうがん)などの工芸品に際立った発展を見せましたが、絵画は中国の宋元の模倣のまま発展せず、遺品も少数です。仏教絵画の新ジャンル・高麗仏画王建、そして歴代の王は仏教に帰依(きえ)し、鎮護国家(ちんごこっか - 仏教には国家を守護・安定させる力が...
2020.01.31 06:5612. 古代朝鮮・高句麗の壁画朝鮮の三国時代古代朝鮮には中国の漢の四郡が置かれていましたが、やがて北部に部族国家の高句麗(こうくり)がおこり、南部には、百済(くだら)、新羅(しらぎ)がおこり、四世紀には三者が互いに対立する状態になりました。三国はそれぞれ中国の北朝・南朝と関係を保ちながら勢力を争い、中国文化の影響を受けながら固有の文化を発展させていきました。七世紀には唐と連合した新羅によって高句麗、百済が滅ぼされ、統一新羅として半島最初の統一国家が誕生しました。高句麗初期の壁画高句麗の墳墓には民族性豊かな墓室壁画が描かれていました。高句麗に投降した中国前燕(ぜんえん - 国名:337~370年)の武将・冬寿(とうじゅ - 289~357年)の墓と言われる四世紀中ごろの安岳三号墳(あ...
2020.01.23 03:1311. 伝統尊重と個性あふれる絵画宮廷画院の繁栄満州族の清は、明代末に起こった各地の反乱に乗じて南下し、1644年に北京の城に入りました。1911年の辛亥革命までの260年余りの期間、中国はふたたび異民族の清に支配されることになります。ところが、清の歴代皇帝は漢民族の伝統や文化を尊重し保護したため、清時代の絵画は宮廷画院、文人画家、そして民間の画家がおおいに活躍することになります。清の宮廷に置かれた画院には中国各地から宗元風の院体画家の他、呉派の南宗画家などが集められ、学芸を好む皇帝「康熙(こうき)」「雍正(ようせい)」「乾隆(けんりゅう)」が続き、画院の画風は端正で精密なものに洗練されていきました。イエズス会の修道士であるカスティリオーネ(郎世寧(ろうせいねい):清前期のイタリア人の...
2020.01.23 00:4010. 明代の浙派と呉派明の画院の浙派(せっぱ)朱元璋(しゅげんしょう - 太祖洪武帝(たいそこうぶてい))は、モンゴルを北方に追いやり、ふたたび漢民族国家の明を建国しました。洪武帝は画院制度を復興し、明時代前期の絵画は宮廷を中心に発展しました。宗元(そうげん)の画風を受け継ぎつつ明時代の独自性を展開しました。画院画家の山水画は南宋の馬遠(ばえん)や夏珪(かけい)などの画風を模範としており、その特徴は、粗暴でよどみのない堂々とした筆致で墨の黒と余白の白を強く対比させた画面構成にあります。浙江(せっこう)出身の戴進(たいしん)が中心となったため、浙派(せっぱ)と呼ばれています。しかし、後には形式主義、技巧主義に陥ったことで徐々に衰退していきました。明代の花鳥画家明代の花鳥画では...
2020.01.15 01:459. 元代の復古主義・元末四大家の山水画元代の復古主義南宋を滅ぼし中国を支配したモンゴルは国号を「元」と定め、大都(だいと - 現在の北京)を都としました。漢民族の士大夫(したいふ)達は道を閉ざされ、逃げるように詩や画の世界に没頭しました。士大夫の絵画を文人画と呼びます。元は画院制度を設けなかったため、元代の絵画は民間の文人画家を中心として発展します。初期のころの元は銭選(せんせん - 人名)や趙孟頫(ちょうもうふ - 人名)が活躍し、形式化していた南宋院体画よりも古代の素朴さを求め、絵画における復古主義を唱えました。趙孟頫は宋の王族でしたが、教養があり高潔な人物が評価されて元の宮廷にも仕え、モンゴル人至上主義の中で漢民族としての誇りを保っていました。元末四大家の山水画元の末期は江南地方で活...
2020.01.15 00:488. 南宋時代の絵画靖康の変(せいこうのへん)により一度滅んだ宗ではありましたが、徽宗(きそう)の子が高宗(こうそう)として即位し、「臨安(りんあん)」(現在の杭州)を仮の都として宋を再興しました《南宋》。南宋時代の絵画は北宋絵画をそのまま受け継ぎ、画院を中心として発展しました。馬夏様式と禅宗系絵図馬遠と夏珪南宋画院で有名な画家は「馬遠(ばえん)」と「夏珪(かけい)」です。馬遠の山水画は「馬一角」と評される独特の構図。風景の一部だけを取り出して画面の片隅に描き、他は余白にして、見る者の想像力に働きかける技法です。技巧としても優れ、張りのある描線や斧で断ち割ったような岩肌(斧劈皴-ふへきしゅん)など、力強さに溢れています。この特徴は馬遠の後継者にも受け継がれ、「馬夏(ばか)...
2019.12.20 03:157. 北宋時代の水墨画北宋の興亡と士大夫の台頭「趙匡胤(ちょうきょういん)」は五代十国の混乱をおさめ、中国を統一し、国号を「宗」と定めました。都を「汴京(べんけい)」に置き、名前を「開封(かいほう)」と改め、皇帝権力の強化に努めました。さらに「科挙(かきょ) - 官吏(かんり)登用試験」によって地方の知識人を集めて官僚組織を整理しました。官僚たちは「士大夫(したいふ)」「読書人」と呼ばれ、唐末以来の戦乱で陥落した門閥貴族階級に代わり、以降、中国文化を支えることになります。この時代の中国は、江南の開発による経済的な発展を見せましたが、宋は学問や芸事に浸り、文弱に流れていきました。国力が弱っている中、北方異民族の契丹(きったん)[遼]や党項(タングート)[西夏]におびやかされつ...
2019.12.20 01:346. 中国・地方文化の開花地方での絵画文化の開花唐が滅亡し、中国は再び分裂します。中国中央部では5つの王朝「後梁(こうりょう)」「後唐(こうとう)」「後晋(こうしん)」「後漢(こうかん)」「後周(こうしゅう)」が交替したため五代と言われ、地方では軍閥の小国が乱立したため十国(じっこく)と呼ばれています。これらは文化にも影響し、海外文化にとっても大きな転換期となりました。唐末以降、長安や洛陽の戦乱をさけた文化人は地方に移り、中央の文化が地方に移っていきました。特に「後蜀(こうしょく) - 王朝名:四川934~965年」と「南唐(なんとう) - 王朝名:江南937年 - 975年」には宮廷文化が保存され、優れた画家もうまれました。蜀(しょく)では「黄筌(こうせん) - 人名」が、蜀...
2019.12.20 00:355. 唐・則天武后時代の陵墓壁画中国唯一の女帝・則天武后(そくてんぶこう)時代の絵画文化則天武后は唐の第三代皇帝「高宗(こうそう)」の皇后でしたが、病弱な高宗の代わりに政治の実権を握り、高宗崩御後には実施の「中宗」「睿宗」を地位から退かせて自ら肯定となりました。則天武后は中国で唯一の女帝(在位690~705年)であり、国号を「周」と改め、唐の王族を次々に殺害し、「武」一族や側近を重用して専制政治を行いました。この時期の文化は初唐の最盛期と言えます。高宗と則天武后は西安郊外に合葬されていますが、その「乾陵(けんりょう)」の近くには、「章懐(しょうかい)太子墓」「懿徳(いとく)太子墓」「永泰公主(えいたいこうしゅ)墓」などの陪葬墓(ばいそうぼ - 近くに埋葬された近親者や従者の墓)が発掘...
2019.12.13 07:134. 唐の国際文化隋の文帝は南北朝を統一し、長安(現在の西安付近)を都として皇帝権力の強化と中央集権制度を推し進めました。南北の絵画の作風も融合され、この時代には「董伯仁(とうはくじん - 画家)」や「展子虔(てんしけん - 画家)」らが活躍しましたが、煬帝(ようだい)の時代で反乱が起こり、3代38年で隋は滅びました。唐は隋の諸制度を受け継ぎ、官僚制度や法整備を進め、異民族をも制圧し、シルクロードを支配下におさめたことで、西方との交流も盛んになりました。唐はササン朝ペルシアやグプタ朝インドなど西方の文化や品物を輸入し、国際文化を開花させました。長安の宮廷画家初頭から盛唐にかけて、有名な画家が多数登場しています。人物画では「閻立徳(えんりっとく - 画家)」「閻立本(えん...
2019.12.13 04:293. 石窟寺院仏教の伝来と石窟寺院後漢の時代にインドから伝わっていた「仏教」が中国の北朝・南朝の両方にまで広がり、洛陽(らくよう)や建康(けんこう)などでも仏教寺院が多数建立され、堂内には壁画も描かれました。この時代、竺法護(じくほうご - 人名)や仏図澄(ぶっとちょう - 人名)などの外国人僧も渡来し、それとともに西域やインドの画法も伝わり、寺院の堂内は外国風の壁画で飾られていました。凹凸寺の例南朝の梁(りょう - 王朝502~557年)の武帝に仕えた画家、張僧繇(ちょうそうよう - 人名)が建康の一条寺に描いた花の絵が立体的に見えたことから、「凹凸(おうとつ)寺」と呼ばれていたとされています。これは西域画風の陰影法を応用したと言われています。シルクロードは石窟寺...